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「好き」を突き詰めて、未来を切り拓く。小田急運転士・鷲田侑紀の挑戦

 

 

 

「せっかく好きなことがあるなら、世界で一番詳しい!くらいやりこんで、突き詰めていってほしい」

不登校の子どもたちに「好きなこと」の大切さを語るのは、小田急電鉄株式会社で運転士として働く鷲田侑紀だ。親の再婚をきっかけにして不登校になった経験のある鷲田は、葛藤を乗り越え、長年胸に秘めてきた「運転士になりたい」という夢を叶えた。

今回の記事では、鷲田が不登校になったきっかけ、不登校期間中の想い、そして鷲田と小田急電鉄との“絆”について深掘りしていく。

 

 

【プロフィール】

鷲田侑紀(わしだ・ゆうき)

 

 

・小田急電鉄株式会社 大野電車区・運転士。
・小さなころから小田急沿線で過ごし、小田急に囲まれて育つ。
・10歳で両親の離婚、高校1年で、母親の再婚を経験。
・母の再婚をきっかけに、高校1年から2年生にかけて不登校。

 

 

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【この記事のポイント】

✔ 不登校期間中に1人の時間をもつことで、自分の心と向き合えた
✔ 追い込まれたからこそ「本当はなにがしたいのか?」を出せた
✔ 好きなことを突き詰めていった先に将来への道がある

 

 

 

小田急電鉄株式会社で、ロマンスカーを運転する鷲田侑紀。

小さなころから小田急に囲まれ、ロマンスカーを運転したい!という想いを育みながら育った鷲田は、高校時代に不登校を経験している。

 

鷲田が不登校を乗り越え、現在小田急の運転士として活躍しているのには、大きな理由がある。それは「あまりにも大きな小田急への愛」だ。鉄道オタクというより“小田急オタク”ともいうべき愛情が、鷲田の語りからはあふれてくる。

 

「不登校時代、家から出られる日には、当時家は小田急沿線ではなかったのに、わざわざ小田急に乗りに出かけていたんです。それで、運転席のうしろ——いわゆる“かぶりつき”と呼ばれる位置から、運転の様子や運転速度なんかを見たりしていました。小田急電鉄についての研究もしていて、古本屋に行って数万円するような社史をおこづかいで買ってきて、読み込んでいましたね。そんなわけなので、小田急電鉄への就職が決まったときも、『まあそうだよな』と思いました。なるべくしてなった、という感じです」

 

 

 

小田急と鷲田を繋ぐ、実父の存在

 

鷲田の小田急への愛情は、実の父との絆がきっかけになっている。

 

「両親は10歳のころに離婚し、実の父親とはそれ以降会っていません。実の父親が小田急のファンで、よく電車を見に行ったりもしていて。小田急が好きなのは、その影響が大きかったように思います」

 

実は「鷲田」という名字にも、実父との“絆”が隠されているという。

 

「『鷲田』という名字は、実父の名字なんです。母が再婚したときに『田村』という名字になったのですが、小田急への就職のタイミングで『鷲田』として戸籍を独立させました。実父とは音信不通でこのことは知らないのですが……それでも『鷲田』の名前で小田急の運転士になりたいという気持ちが強くありました」

 

 

 

母の再婚をきっかけに不登校に

 

鷲田の人生に大きな影響を与えている実父の存在。実父への想いの深さも相まってか、母の再婚をきっかけに、鷲田は高校2年生で不登校になった。

 

「高校1年生のとき、環境が大きく変わりました。親の再婚です。『自分は何者なのか?』というアイデンティティに関わる部分がわからなくなってしまった。明確なきっかけがあったというよりは、ぼやっとした不安、葛藤から、とぎれとぎれで登校するようになりました。学校が嫌だから行かない、というよりは、『環境に適応したくない、できない』という思いの表出が不登校だった、という感じかもしれないです。とにかく『外界とつながりたくない』『1人になりたい』という気持ちが強かったですね。友達からの連絡でさえ、『来ないでくれ』と思うくらいでした」

 

鷲田は不登校期間を通して、「自分の気持ちを整理していた」と話す。

 

「自分のルーツみたいなものと向き合う時間が必要だったのだと思いますね。実父に会いたいのに会えない、というもやもやもありました。たまたま高校に実父の元同僚の先生がいたので、その先生に突撃して実父の話を聞いたりもしましたね」

 

 

 

不登校から復帰したきっかけは「家族で話したこと」

 

不登校から復帰したきっかけは、母の再婚相手である養父を含め「家族で話す時間」をもったことだった。

 

「『自分は何者なのか?』という部分で悩んでいることを含め、自分の思いを家族に思い切りぶつけたんです。『子どもにはどうしようもできないことがある』と気持ちを昇華していき、少しずつ解決していき、高校3年生になるころには登校できるようになっていきました。養父との関係性は良好で、自分の結婚式にも新郎の父として出てくれました。養父の親戚を含めて『こちらに無理に合わせる必要はない』『お前はお前だから』というスタンスでいてくれたのがありがたかったです」

 

戸籍を独立させて「鷲田」姓を名乗るにあたっても、養父は優しく受け入れてくれた。不登校を経験したからこそ、話し合え、分かり合えたと鷲田は語る。

 

「『田村』から戸籍を独立して『鷲田』になったときも、『戸籍は離れても、家族であることは変わらない。血は繋がってなくても、戸籍が繋がってなくても、自分の子どもだと本気で思っている。だから安心しなさい』と伝えてくれました。本当に養父は偉大な父親です。そういう親子になれたのも、不登校の時に腹を割って話ができたからこそだと思います」

 

鷲田が不登校だった期間、両親は積極的に登校を促すことはなかったという。

 

「両親は共働きだったので、そもそも最初は僕が学校に行っていないのを知りませんでした。先に出勤していたので、当然僕はそのあと登校しているものだと思っていたのです。高校についても、自由な校風だったのですぐには親に連絡はいかなかった。休みが定期的になってきたタイミングで学校から親に連絡が入りましたが、特に『面談しましょう』というような動きはなく。親からも学校になにか働きかけたりすることもありませんでした」

 

「親からの声かけは、たまに『今日学校行かなかったんだって?』くらいな感じで言われる程度。当時の自分は、正直それすらも言われたくなかった……とにかくほっといてほしい、1人になりたいと思っていたので。親からすると、言いたいことがたくさんあるのを我慢して我慢して、その一言だったと思うのですが。

学校に行かなかった日は、作ってくれたお弁当も家で食べて、さも日中は学校に行っていたかのような振る舞いをしていましたが……きっと親にはお見通しだっただろうなと思います(笑)」

 

 

 

子ども時代に抱えていた葛藤

 

「幼少期、未就学時代は引っ込み思案で泣き虫な子どもだったそうです。集団で動くのが得意ではなく、『やだ!』と園長先生の部屋で泣いて訴えていたと母から聞いたことがあります。僕自身は、よっぽど嫌な記憶なのか覚えていないのですが……」

 

「小学校に入ってからは、イベントやプールの授業など、『どうしても休みたい!』というタイミングで休む子でした。嫌なことからは逃げたい、というか。でも、基本的には目立ちたがり屋。他人と関わるのが嫌、でも話すのが嫌なわけではない……と思っていたので、放送委員会に入ったり、好きだった『話す』役割をよくやっていました」

 

クラスの前で発表したり、委員長に立候補したりと、人前に出て活躍していた鷲田。その一方で、小田急電鉄への想い、運転士への憧れは親にも友達にも打ち明けられずにいた。実父を含めた家族みんなが「学校の先生」だったという家庭環境もあり、「運転士になりたい」となかなか言い出せなかったという。

 

「夢を周りに言うことにコンプレックスがありました。親戚を含めて周りが学校の先生だらけのなか、働く時間も不定期、いわゆる『ブルーカラー』である運転士という職に就きたいと言い出すことができなくて。9~17時で終わって、土日祝や年末年始は休めるような……世間的にかちっとしたような仕事に就くことを求められていると思っていた。なので、将来のことを聞かれると、自分の思う『運転士よりもかちっとしていそうなカッコイイ職業』を言っていました。それでもやっぱり、自分の心の底では、小中高と『小田急の運転士』への憧れを引きずり続けていたんです」

 

 

 

「好き」と向き合うきっかけは浪人期間

 

鷲田が長年胸の奥底で温め続けてきた「小田急電鉄の運転士になりたい」という熱い想い。表に現れたきっかけは大学受験だった。

 

「高校3年生のときは、4年制大学への進学を目指して受験勉強をしていました。けれど、明確な目標がもてていない、自分をごまかしている状態で勉強しようとしてもモチベーションが上がらなくて。現役生のときは浪人しました。浪人期間に入っても、やりたいことがきまっていない状態なのは変わりがなく、モチベーションはあがらず……勉強から逃げていたのですが、秋冬になって『いい加減このままじゃやばい!』と。追い込まれてようやく『本当はなにがしたいのか?』と向き合って……『小田急に関わる仕事がしたい!』と心に決めたんです」

 

ずっと憧れてきた「小田急電鉄」。そうと決めてからの鷲田のパワーは圧倒的だった。

 

「親にももちろん『小田急の運転士になりたい』と伝えましたし、鉄道会社に就職できる短大を見つけて受験。合格を決めました」

 

 

 

 

「かつての憧れの場所」に今自分がいる

 

数々の葛藤を乗り越えて辿り着いた憧れの「小田急電鉄の運転士」という職業。やりがいを感じるのは「親子連れから手を振ってもらうとき」だという。

 

「先日、初めて1人でロマンスカーを運転しました。そのとき、いつも自分も実父と運転手さんに手を振っていた踏切に親子連れが立っていて、手を振ってくれていて……かつての自分に重なって、運転しながら思わず泣きそうになってしまいました。運転士をしている人の半分以上が、同じような経験をしているのではないかと思いますね。小さい頃の憧れの職業・好きなことがそのまま大人になってからの仕事に繋がる人が多い、珍しい職種かもしれません」

 

 

 

「好き」を突き詰めた先に未来があると伝えたい

 

「好きなこと」を仕事にし現在進行形で活躍している鷲田の次なる目標は、「子どもたちの助けになれる場をつくること」だと話す。

 

「好きなことをしたいけれど、できずにいる子どもの助けになりたいと思っています。不登校であることによって制限されることなく、好きなことを生かして活躍できるフィールドを提供したい。せっかく好きなことがあるなら、世界で一番詳しい!くらいやりこんで、突き詰めていってほしいですね。世界で一番その分野の知識を身につければ、必ずその知識を求めてくれる人が現れます!」

 

小田急電鉄への愛が高じて就職を勝ち取った“小田急オタク”の鷲田らしいメッセージだ。一方で、不登校のお子さんをもつ親御さんたちにはこんなコメントをしてくれた。

 

「好きなことばかりしているお子さんを見ていると、親御さんたちは不安になるかと思いますが……ぜひ見守ってあげてほしいです」

 

ロマンスカーの運転士に憧れて踏切から手を振っていた少年は、環境の変化と不登校経験を乗り越えて「手を振られる存在」になった。「好きなことを突き詰めていった結果として、なるべくして小田急電鉄の運転士になった」と語る鷲田の姿は、多くの子どもたち、保護者の方々にとってのロードマップになるだろう。鷲田がこれから進んでいく人生というレールが、どんな方向へと向かっていくのか、今後ますます目が離せない。

 

 

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鷲田さんと同様不登校を経験し、現在は小田急電鉄の運転手をしている別所尭俊(べっしょ・たかとし)さんのインタビュー記事はここから!

 

運転士さんは「元・不登校」——不登校体験から学んだ生きる力―― 小田急電鉄株式会社・運転士 別所尭俊

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