不登校問題についての情報サイト。不登校の原因や対策について学ぶ。

子どもを信じるって、どういうこと?

 

「子どもを信じる」とは?

「子どもを信じる」とよくいいますよね。私もときどきこの言葉を使います。でも、この言葉って、けっこう奥に深いものが潜んでいると思うんです。なぜなら、「子どもを信じる」ということは、その裏側に「子どもを信じていない」という親の気持ちがあるからです。信じていないからこそ、あえて「信じる」と言うことになる。つまり、「子どもを信じる」という言葉の奥には、圧倒的な子どもへの「不信感」や「疑い」があるのです。

 

不信感の正体は?

子どもへの「不信感」や「疑い」の正体は何か。たぶんそれは、「親の思いどおりに子どもは動いてくれない」ということでしょう。

 

たとえば、ゲームばかりしてなかなか勉強してくれない子がいるとします。親はゲーム三昧の子を見てやきもきします。でも、口うるさく指図すると、子どもはかえってへそを曲げるので、逆効果だと分かっている。だから、口は出さずに、いつかはきっと自分から気がついて勉強してくれるはずだと信じたくなるのです。

 

つまり、「信じる」という言葉の背後には、「こうなってほしい」という親の欲望があり、それに向かっていつか子どもは動きだしてくれるはずだという期待が働いているのです。

 

さて、このような「不信感」や「疑い」から生まれた「信じる」は、本当に子どもを信じていることになるのでしょうか。私はちょっと疑問に思います。

 

「信じる」とは「委ねる」こと

初めに「こうなってほしい」という親の欲求がある。その理想に従って子どもが育ってくれるように「信じる」のは、本当に「子どもを信じる」ことではありません。

 

なぜなら、初めから「結論ありき」だからです。そう、多くの場合「子どもを信じる」というのは、「親の言う通りになってくれよ」という気持ちの現れにすぎません。

 

「人を信じる」ということは、「望ましい結果」を相手に押しつけることではありません。「結果」を含めたすべてを相手に「委ねる」こと、これが本当に「人を信じる」ことだと思います。

 

つまり、「〇〇なってほしい」「〇〇してほしい」という気持ちを持っているうちは、子どもを信じていることにはなりません。そのような欲望をすべて捨て去ったとき、初めて親は本当に「子どもを信じる」ことができるようになるのです。

 

待たなくていい

こういう観点から「子どもを信じる」ということを考えるとき、よく言われる「動き出すまで待つ」ということにも違和感があることが分かってきます。

 

「いつになったら学びだすの?」「いつになったら動きだすの?」という思いを胸に秘めたまま、何も言わずに「待っている」のは、子どもを信じていることにはなりません。

 

本当に子どもを信じているのなら、すべてを子どもに委ねているはずですから、もはや「待つ」という行為も必要ないのです。

 

親があるべき理想の姿を思い描き、それに従って子どもが動き出すのを「待つ」のは、まだまだ子どもを信頼できていない証拠だと思います。

 

子どもは鋭いので、そういう「待ち方」をしても必ず見破られてしまいます。「待つ」行為の裏側に子どもに対する「不信感」や「疑い」があることが見透かされてしまうのです。

 

「待っている」うちは、まだまだ「子どもを信じる」ことにはなりません。「あなたの選択のすべてを信頼し、肯定します」という覚悟が親の中に生まれたとき、初めて「子どもを信じる」という親の言葉を、子どもは信じてくれるのです。

 

そうなれば、もはや「待つ」行為は不要になります。心の底から子どもを信じ、ただ見守るだけになるのです。

 

 

【この記事を書いた人】 蓑田雅之

コピーライター。
「東京サドベリースクール」の元保護者であり、現在は評議員を務める。

子どもがオルタナティブスクールへ通うようになり、従来の学校教育のあり方に疑問を持ち、教育分野の研究に着手。
自立した人間を育てるための保護者のあり方を探求するとともに、企業や保育園・幼稚園で不登校にならないための予防薬「おはなしワクチン」の活動を続けている。

 

子どもたちの「好き」から繋がる学びを記録する「楽習楽歴」の代表として活躍中で、ココンとも提携中です!

 

✔️「楽習楽歴 」は【こちらから】チェック!

✔️「『とりあえず、ビール。』で不登校を解決する」書籍の詳細は【こちらから】!

✔️不登校問題に関する講演やインタビューを届ける「びーんずねっと」は【こちらから】!